【2020春…新たなスタート②】現場を離れる甲子園2度出場の指揮官 鈴木春樹さん

野球を通して、学んだことがある。その思いを胸に、この春、新たなスタートを切る新潟の<野球人>を3人紹介する。

2人目は柏崎高校、新潟県央工業高校の野球部監督として春夏計2度の甲子園出場を果たし、母校・長岡大手高校で6年間、野球部監督を務めてきた鈴木春樹さん(49歳)。4月から野球部のない八海高校で教頭となり、高校野球の現場から離れる。「打倒私立」を掲げ、闘志をむき出しにして強豪に立ち向かっていった指揮官は、いま何を思い、高校野球界にどんな言葉を残すのか。

4月から教頭となり、高校野球の現場を離れることが決まった鈴木春樹さん(長岡大手高校のグラウンドで)

なぜ、現場の指導者から「教頭」に?

3月24日に新潟県の教職員人事が発表された時、長岡大手高校の監督・鈴木春樹さんの異動に多くの高校野球関係者、OB、ファンが驚いた。まずはその疑問を率直に本人にぶつけた。

「自分の回りに素晴らしい管理職の先生がいらっしゃって、自分もそういう管理職になりたいと思ったのが第一の理由です。もうひとつの理由は、ずっと野球部の生徒たちには野球が『終わった後』のことを伝えてきました。『自分から野球を取った時に、何も残らない人間ではいけない』と。『野球を頑張ったように、勉強もしなければいけないし、野球を卒業した時に野球で頑張ったことを他の分野でいかすんだぞ』とずっと指導してきました。母校で6年間、監督をやらせていただき、私の年齢も次の誕生日が来て50歳になります。そこで、私から野球を取った時に何が残るんだということを、教え子たちに示さずに教員生活を終わってしまうことはどうなのだろうと考えました。生徒たちに『野球とは関係ない場所でも、鈴木は野球のように情熱を注いでやれるんだということを見せたい』と思ったことがきっかけです」

迷いはあった・・・そう率直に話してくれた。

このまま現場の監督を続けるのか、現場を離れて管理職を志すのか・・・気持ちが揺れ動いたのは去年のことだったという。シード校として迎えた夏は初戦(2回戦)で上越に2対3で惜敗。秋はベスト16に進出したものの4回戦で村上桜ヶ丘に1対5で敗れた。

敵将の言葉を聞いたのは、その直後だった。

「秋の最後の相手(村上桜ヶ丘)が松田(忍)監督だったのですが、試合が終わった後に『どうしたんだ?』と。『春樹らしい闘争心が感じられなかった』と仰るんです。長年戦ってきて私の変化を感じられたようでした。『ああ、やっぱり分かる人には分かるんだな』と思いました。決して野球に対する情熱がなくなった訳ではありません。しかし自分が違うステージに立とうかどうかと考えている気持ちが、対戦相手に感じられた・・・その時点では、まだ春以降にどうなるか分からなかったのですが、私の胸のうちは第一線で戦ってきた人にとっては一目瞭然の変化だったのでしょう」


「打倒私立」を掲げ、強豪相手に闘志むき出しで立ち向かった(2018年夏)

鈴木さんは、中越高校を率いて7度の夏の甲子園出場を果たした名将・鈴木春祥氏の長男として育った。長岡大手高校、順天堂大で野球を続け、1995年に新潟県の教員として採用された。佐渡・羽茂高校では新任の1年間を陸上部顧問として過ごし、2年目から野球部監督を務めた。以来、柏崎高校、新潟県央工業高校、母校・長岡大手高校の4校で野球部の指導にあたった。

柏崎では2003年春に21世紀枠として選抜甲子園に出場。新潟県央工では2008年夏に甲子園出場を果たした。「打倒私立」を掲げ、強豪相手に闘志むき出しで戦い、「公立の雄」を育てていった。

「柏崎の時に21世紀枠で甲子園に出場したことは、その後の指導に大きな影響を与えました。甲子園に出たい、と思っていましたが、いざ出場が決まると物凄いプレッシャーでした。それでも決められた『3月22日』に試合をしなければならない。どんな展開でも9回まで試合をしなければいけない。しかも、当時の新潟県は唯一のセンバツ未勝利県。前の年に北朝鮮から帰国された蓮池薫さんの母校ということもあり、いろいろと注目されました。そこでパーフェクトノック、パーフェクトバント、という練習を考えました。全員が成功するまでは練習が終わらない。力が足りないチームでしたが、甲子園出場が決まった以上はやるしかない。甲子園で受けるプレッシャーというものがどれくらいのものかわからない中で、生徒たちにプレッシャーをかけられるだけ、かけ続けました。試合は斑鳩(奈良)に1対2で負けたのですが、自分たちの野球ができたという思いがありました。生徒には厳しいかもしれないけど、求めたらどうにかなるんだなという経験をしました」

新潟県央工の監督として迎えた2008年夏。準決勝で日本文理高校に勝利し、決勝では初出場を懸けた佐渡高校に延長戦の末に競り勝ち、甲子園出場を決めた。

「印象に残っている試合は、やはり佐渡高校との決勝での激闘。延長戦の苦しい試合でした。もうひとつ、2016年夏の3回戦での村上桜ヶ丘高校との試合も印象に残っています。3点差を追う9回に4点を取ってサヨナラ勝ち。死闘でした」

その2つの試合はどちらも、試合後に見せた鈴木さんの涙が印象的だった。

「勝って報道陣の前で泣いたのはその2回でしたね(笑)。どちらも自分の想像を超えるところで生徒たちが野球をやっていました」


2016年夏、3点差を追う9回に逆転サヨナラ勝ちを決めた選手たちを称え、思わず涙を見せた

23年間の監督生活。指導者としてキャリアを重ねる上で、辿り着いた「野球道」がある。

これほど責任が明確になるスポーツって他にないですよね。野球は投手が打たれれば投手の責任になり、『エラー』をしたら誰かに必ず『E』の記録がつきます。父が2度目に甲子園に出場した時、広島商業に敗れました。その縁で何度か広島に行って勉強させていただきました。その当時、広島商業の投手だった沖元茂雄さん・・・その後広島工業の監督として甲子園に出場して、今は高陽東の監督されています・・・その沖元さんのネットワークで当時の広島商業の野球を研究しました。そこで皆さんが『最後は自分のエラーで負けるんだ』と口々に言うんです。ピンチでマウンドに集まった時に投手には『頑張れ』と言い、野手同士では『負けるんだったらエラーにしたろうな』と言い合っている。投手が打たれて負けるのではなく、球にくらいついて、エラーにしてでも自分たち野手のせいで負けるようにしよう、と当時の広島商業の選手たちは話していたことを聞きました。その考え方に共感しました。トーナメントは1チームを除いてどこかで必ず負けるわけです。野球をやる以上は、そういうギリギリの場面にさらされるわけです。最終的にその場面に出くわした時に、ボールから逃げるのではなく、自分のエラーになる覚悟でボールに飛び込んでいく…そういう野球をずっと目指してきました」

この間、野球を取り巻く環境は大きく変わった。野球人口の減少、指導のあり方、教師の世界にも“働き方改革”の波は押し寄せている。時代は変化している。

「でも」と鈴木さんは言う。

「でも、野球の勝負の厳しさは変わりません。だからこそ、野球が終わった後も、その力が活きるんだと思います。確かに『楽しく野球をやろう』『エンジョイ・ベースボール』という考え方はあるかもしれません。野球は楽しい…ホームランを打って勝つ、というところから始まっていいと思います。しかし小学生のチームであろうとプロ野球のチームであろうと、野球というスポーツの<勝負>の場面には必ず、逃げることのできない、厳しい場面があるんです。それを乗り越えて、本当の友情、本当の感謝の気持ち、本当の喜びがあると思います。そこに人間的な成長を感じられる、素晴らしいスポーツだと思います」


厳しい場面を想定した練習を繰り返した(2015年)

監督として、追いかけてきた背中があった。父親の鈴木春祥監督。そして、そのライバルとして新潟県でしのぎを削ってきた名将たち・・・。

「私にとっては(長岡商業の監督だった)黒田(貞一)先生(故人)の存在があります。黒田先生に挑んでいったウチの父親がいて、世代交代して、そこに日本文理と新潟明訓が取って代わりました。2校目の柏崎に着任した時、新潟明訓との練習試合が組まれていました。0対38くらいのスコアで負けた記憶があります。佐藤和也監督(現・新潟医療福祉大総監督)から洗礼を受けました。そこから始まって、柏崎で4年目の2002年秋の県大会で3位決定戦で新潟明訓と当たりました。延長戦でサヨナラ勝ち(3対2)をしたんです。そこから北信越大会に出場して翌年春の選抜21世紀枠に繋がるんです。佐藤監督には公式戦で2つ勝ちました。日本文理には2008年に春と夏の2回、2016年夏に1回、計3勝ですね。時代の流れの中で、佐藤監督、大井道夫監督(現・総監督)がいなくなったというのも大きいですね。大井さんを相手に県内で最後に勝ったのが私です(笑)。強大な徳川軍に挑んで2度も勝った真田軍の戦いを記した『真田太平記』は私のバイブルでした」


日本文理の大井道夫監督(当時)と試合前に健闘を誓い合う

23年間にわたる公立高校から甲子園を目指す道に一区切りをつけた鈴木さん。教頭として野球部のない学校に赴任する。これから目指すものは、何になるのか。

「野球というフィルターを通して生徒たちに伝えてきたことを、自分なりに工夫をして八海高校の生徒たちに伝え、一生懸命いろいろな分野で活躍をさせてあげたいと思います。私もこれから管理職になっていろいろなプレッシャーがありますが、これまで野球で成長できたと思いますから」

気になる今後の野球との関わり方を聞くと、意外な答えが返ってきた。

「どうですかね・・・今まで土日は遠征だったので・・・まずは学童野球をやっている長男と次男の追っかけですかね(笑)。父親(春祥さん)はがっかりしてるんじゃないですか(笑)。大井さんには教頭になることが決まってから電話をしました。一番電話しづらかったですね、怒られるんじゃないかと思って(笑)。でも『その道に行くなら頑張れよ』って励まされました。ありがたかったです。若い、
特に本気で私学を倒して甲子園に行こうという公立の指導者には、聞かれれば私の経験で役に立つことがあれば答えますよ」

母校を離れるにあたり、ひとつだけ、心残りがあるという。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、2月末から休校となった。離任式もなく、部員たちに直接話す機会がないまま、学校を去らなければならなくなった。

「ミーティングもできなかったので、メールやラインでメッセージを伝えました。夏の大会で長岡大手はベスト4以上に行ったことがありません。何とか夏の大会で力を発揮してほしい。投手も揃っているので期待しています」

監督として目指し、2度、その土を踏んだ<甲子園>・・・そこは鈴木さんにとってどんな場所だったのだろうか。最後に尋ねた。

「人の念というか、気持ちというものが感じられる場所でした。あそこに行くと力以上のものが出る・・・背中を押してくれる『ゴッドハンド(神の手)』が本当にあるんだなとベンチで感じましたね。そういうものを、長岡大手の生徒、そして新潟県の野球部の子どもたちに、感じてほしいと思います」

(取材・撮影・文/岡田浩人 撮影/武山智史)