【BCL】「新潟に恩返しを」・・・創設1年目からの唯一の選手 稲葉大樹

10月として初めて35度を超える猛暑日を記録した10日。熱風が舞い込む見附運動公園のグラウンドに、黙々とバットを振る新潟アルビレックスBCの稲葉大樹(ひろき)の姿があった。

「お疲れ様でした」・・・若手選手たちが次々と挨拶にやってきて帰路につく中、稲葉は最後までバットを振り続けた。大粒の汗を額から滴らせながら。

8月に29歳になった。

「若い頃と違って、疲れがだんだんとれなくなってきたんですよ」
そう言って笑顔を見せる。
その分、自分の体のケアには気をつける。毎朝、目覚めた後のストレッチを欠かさない。
「昔はそんなこと、しなかったんですけどね」

新潟アルビレックスBC 稲葉大樹選手

黙々とフリーバッティングをおこなう

東京都の出身。大学を卒業しクラブチームに経た後、新潟にやってきてことしで7年目。BCリーグ初年度、新潟アルビレックスBCが創設された2007年に入団した。現役としては唯一となる「1年目から残る選手」だ。

その類稀なバットコントロールで“新潟の安打製造機”として活躍してきた。一昨年の2011年8月には月間打率.647を記録。公式戦72試合のBCリーグでシーズン100安打を記録した。NPBの公式戦144試合に換算すると「200安打」を放つ計算になる。

今シーズンは6月23日にBCリーグの選手として初めてとなる通算500安打を達成。後期は打率.403の数字を残し、野手MVPを獲得。自身2度目のシーズン100安打も記録した。

「独立リーグで7年目、選手として何千打席も立ってるし、何百球も捕ってきている。積み上げてきた経験から、若い時よりも技術は上がってきています」
稲葉は自信を持って答える。
一方で、こうも言う。
「年齢も年齢だし、そろそろ後輩たちにも自分の姿勢を伝えていかなきゃいけない。自分のことだけを考えてちゃいけない。チームのため、後輩のため、という気持ちになってきました」



入団したての若い時はひたすら練習を積み重ねた。周囲の選手は関係なく、ただがむしゃらに自分のことだけを考えてバットを振った。しかし、なかなか結果が出なかった。

入団5年目の一昨年、高校の先輩でもある橋上秀樹氏(現・巨人戦略コーチ)が監督に就任した。「人間的な成長なくして、技術の成長なし」・・・橋上氏はことあるごとに稲葉に言い続けた。

最初はその言葉の意味するところがわからなかった。しかし、生活態度を改め、まわりへの目の配り方を変えると、これまで見えていなかったものが見えてきた。投手の細かなクセ、配球の傾向・・・今まで考えなかったことを考えるようになった。そして稲葉のバッティングは大きく飛躍した。

稲葉は今、その経験を若い選手に“背中で”毎日伝えている。

人間力が高くないと、野球のいろんなことに気づくことができない。ここに早く若い選手に気づいて欲しい。僕はもうNPBに行くには厳しい年齢になってしまったけれど、若い選手も早く気づかないとNPBに行ける年齢ではなくなってしまう。練習するのは当たり前。そこにプラスして、なぜその練習が必要なのか、そこを考えないとNPBに行けないと思うんです。僕はあまり口が上手い方でもないし、ガツンと言うタイプでもない。聞いてくれば教えるけれど、気づくかどうかはその選手次第。先輩として、いい経験をしているプレーヤーとして、僕の行動やプレーで気付いてほしいんです。僕は若手に失礼にならないようにという責任感を持ってやっています」

5日から始まったリーグチャンピオンシップ(CS)。2年連続の優勝を目指す新潟アルビレックスBCは石川ミリオンスターズに2連敗を喫し、後がなくなった。石川とは一昨年のリーグCSで対戦。6点差をひっくり返され優勝を逃した。新潟にとっては「超えなければいけない」相手だ。

「去年、ことし入ってきた選手はどう思っているかわからないけど、やっぱり石川に対しては特別な思いがありますね、2年前に悔しい負け方をしたので。今、2連敗して確かに崖っぷちかもしれない。けれど守ったらダメ。攻めるしかない。攻める=失敗する、というリスクもあるけど、でも攻めなきゃ始まらない。自分たちで流れを呼び込まなければ・・・」

12日からはホームで3連戦が始まる。稲葉とチームメイトが目指してきたリーグ連覇には3連勝しか残されていない。

そして稲葉は、もう1つの“特別な思い”でこのホーム3連戦の打席に立つ。

「新潟アルビレックスBCという球団は、自分が夢に挑戦する場を与えてくれた球団です。アルビがなかったら7年前に野球を辞めていました。幸い残り3試合はホームでの試合。最高のサポーターの前で胴上げをして、何とか恩返しをしたいんです」


(取材・文・撮影/岡田浩人)


父子で甲子園の夢叶わずも「次は指導者で父子勝負」・・・五泉・後藤拓朗主将

勝負の世界には、時に残酷な結末が待っている。

父親が監督。息子が主将。「父子鷹」として注目を集めた五泉。
19日の4回戦で新潟工を相手に3対1とリードして9回を迎えていた。
しかし1死からミスをきっかけに同点に追い付かれる。

迎えた延長12回表、2死2、3塁のピンチ。
ショートとセンターの間の難しい場所にボールが飛んだ。
「拓朗なら捕れる」・・・父の後藤桂太監督は確信した。センターの息子・後藤拓朗は俊足を飛ばして落下地点へと入る。
「捕った」・・・そう思った瞬間、白球が拓朗のグローブからこぼれ落ちた。
痛恨の落球。1点を勝ち越され、その1点が決勝点となった。
延長12回、3対4で敗戦。甲子園初出場を目指した五泉の夏は終わった。

父・後藤桂太監督(左)と息子・後藤拓朗主将(左から3人目)

父・後藤桂太監督は1984年春の選抜大会に新津高校の捕手として甲子園に出場した。「甲子園に行けば人生が変わる」・・・長男の拓朗は子どもの頃から父にそう聞かされてきた。
拓朗は五泉北中学時代に本格的に野球を始めた。「足は速かったがそんなにうまい選手ではなかった」(父・後藤桂太監督)が、中学3年では準硬式のKボール新潟県選抜に選ばれた。私立高校からの勧誘もあったが、父のもとで甲子園を目指す決意をした。
それ以来、父と子の関係は「監督と選手」に変わった。自宅でも拓朗は父親を「監督」と呼び、普段の生活から敬語を使って話すようになった。
父の息子への指導は厳しかった。「物凄く叱られました」と拓朗は振り返る。監督も「いつもどやしつけていた。耐えて頑張れ、と思っていた」という。

父の期待に息子は応えた。新チームで主将になり、不動の1番打者としてチームをけん引した。去年秋の新潟県大会でベスト4に進出。北信越大会で強豪の敦賀気比(福井)に善戦し、春の選抜甲子園の21世紀枠の最終候補に残った。
「冬は21世紀枠の候補に選ばれて、甲子園ではどういう戦い方をしようかと監督と毎日そういう話ばかりしていました」(拓朗)
20121012五泉
去年10月、新潟県大会3位で北信越大会に出場

しかし、1月の選抜大会の選考委員会の結果、五泉は21世紀枠の選考から漏れた。甲子園出場の夢は叶わず、後藤桂太監督は記者会見で涙を見せた。そして、選手たちにこう言った。「お前たち、悔しいよな。神様はお前たちに『もっと力をつけてから甲子園に行け』と言っているんだ」。
主将の拓朗は父である監督の涙を見て「燃えました。夏は監督を甲子園に連れて行こうとみんなで誓いました」という。

1月25日、21世紀枠で選考漏れし涙を見せる後藤桂太監督

迎えた夏。初戦をコールド勝ち。2戦目も苦しみながら勝利で飾り、シード校・新潟工との対戦となった。
「練習試合でも勝ったことがなかった」(後藤桂太監督)という新潟工相手に、序盤に2点を先制。5回には拓朗の中越え二塁打をきっかけに1点を追加。五泉ペースで試合は進んでいた。

19日の新潟工戦。5回に後藤拓朗主将が3点目のホームを踏む

しかし、7回に1点を返され、9回には同点に追い付かれた。延長12回、新潟工のエースで7番打者の増子のセンター前への当たりを拓朗がよく追いついたものの落球。新潟工に逆転を許した。
拓朗は振り返る。
「新潟工のエース増子とは中学時代にも県大会で対戦しました。その時にセンター前に来た当たりを僕が捕れずにサヨナラ負けを喫してしまった。あの時もっと前に出ていれば…とずっと思っていました。今回も増子の打った球が僕のところに飛んできました」
中学時代と違い、拓朗は迷わず前に出た。ボールには追いついた。しかし、ボールはグローブに当たり芝生に落ちた。

「捕れた打球でした。自分の力不足でした」
敗戦後、涙を流すナインの中で、拓朗は決して涙を見せようとはしなかった。
ベンチ裏で報道陣の取材に健気に応じていた。
「自分の甘さが出ました」・・・敗戦の責任を一身に背負っているように見えた。
父親の後藤桂太監督は、無念の表情で言葉を絞り出した。
「まさかこういう負け方で終わるとは・・・。悔しさしかない。もう、悔しいですわ。勝たせてあげたかった」・・・そう言うとうなだれた。

敗戦から一夜明けた五泉高校グラウンド。
朝8時過ぎには3年生17人が集まっていた。
グラウンドの草むしりをし、下級生である1、2年生の練習を手伝っていた。

後藤桂太監督はさばさばした表情で前日の試合を振り返った。
「きのうの試合は良いところも悪いところも出るものが全部出た。練習通りのことが本番で出る、練習でやっていることしか本番で出せない。このことをこの先の人生に生かして欲しい」

敗戦から一夜明けた20日、五泉高校グラウンド

そして父と子の関係ではなく、監督と選手、監督と主将として拓朗と過ごした2年4か月をこう語った。
「無茶苦茶幸せな時間だった。息子が上達していく姿を一番近くで見ることができて・・・アイツが打って、どうだ!という表情でこっちを見る。たくましくなったなと思っていた。今は親と子が仲良く・・・という時代だけど、こういう関係の父子でも幸せだった」

拓朗は大学への進学を希望している。父と同じ教師の道を目指し、高校野球の指導者になることが目標だという。

試合に負けた夜、帰宅した父に呼ばれた。部屋で2人きりで話をした。
「『きょうの試合はお前で負けた』と言われました。その後、『甲子園にお前と一緒に行くという俺の夢は終わった。だけど、この先の俺の夢は、監督となったお前と戦うことだ。それを目標にやっていこう』と言われて・・・。監督と握手をして、そこで初めて涙があふれました」

五泉高校野球部3年生の部員たち(真ん中が後藤拓朗主将)

後藤桂太監督は「これから息子とどう付き合っていけばいいのか」と照れながら笑った。父子鷹の物語は第2章へと向かう。

拓朗は「まだ教えてもらうことがたくさんあるので、卒業するまでは『監督』と呼ばさせていただきます。甲子園には連れて行けなかったけれど、違う形で恩返ししたい。将来、高校野球の監督になって、絶対に『監督』に勝ってみせます」
そう言って笑う拓朗の目は、父にそっくりだった。

(取材・撮影・文/岡田浩人)


けが乗り越えリベンジ果たす…新発田・山田健登投手

最後のバッターを渾身のストレートで三振に切ってとると、高くその左腕を突き上げた。
「気持ちで投げました。県央工には絶対に勝ちたかったので嬉しかった」

3度目の正直、3度目で掴んだ勝利だった。

1年前の夏の新潟大会。シード校を破った新発田は3回戦で県央工と対戦した。2回までに10点を奪い、10-1とリードした。誰もが新発田の勝利を疑わなかった。

しかし、そこから県央工の粘りにあった。当時2年生だった山田は2番手で登板したが、県央工の勢いを止められなかった。追い上げられて降板。試合は9点差を追いつかれ、延長10回の末サヨナラ負け。悪夢のような敗戦だった。

1年前のスコア 新発田は9点差を逆転された

迎えた昨秋の大会も、準々決勝で県央工と対戦した。新チームでエースとなった山田は完投したものの0-1で敗れた。

夏でのリベンジを期していた山田にさらなる試練が襲い掛かる。昨年12月に左肩に痛みを覚え、ボールを握ることができなくなってしまった。

「けがをしてしまって苦しい冬でした」・・・山田は振り返る。

痛みは春まで消えなかった。その間、試合で投げることはできず、地道な練習を積み重ねた。「体幹や階段ダッシュで下半身を鍛えました。ウェートトレーニングで筋肉をつけ、食事を多くとるようにしました。そのおかげで体重が6キロ増えました」・・・体が一回り大きく、たくましくなった。何より「精神的に成長している」と石川浩監督は目を細める。

5月中旬ころから試合に出始めたが、投げ込み不足から制球がままならなかった。しかし、夏への気持ちは切れなかった。1回戦、2回戦と徐々に調子を上げてきた。

迎えた19日の県央工戦では、初回に制球が定まらずに連続四球でピンチを招いたが、そこから圧巻の3者連続三振で無失点に抑えた。これで「いい流れになった」

球の出所が見えにくいフォームで、左腕から伸びのある直球とキレのある変化球を投げ込む。9回を完封。被安打は僅かに2で、奪った三振は14を数えた。昨夏、昨秋と2度にわたって敗れた相手に対して、リベンジを果たした。

19日のスコア 山田は県央工を完封した

「チームで一丸となって、県央工を倒そうと練習してきました。勝てて嬉しい。四死球が多かった(7つ)のが次戦への課題」と話し、反省も忘れなかった。
これで3試合27イニングを投げ無失点。奪三振は44という数を数えた。
石川監督も「彼が投げるとチームがいいリズムに乗れる。山田がしっかり投げるのがウチのパターン」と信頼を寄せる。

「次からはもっと強いチームと当たる。点を取られても最少失点で粘り強く投げたい」
1つの目標であったリベンジは果たせた。ただチームの目標はあくまで「頂点」。甲子園まではあと3つだ。
「どこよりも長い夏にしたい」・・・試練を乗り越えた山田の決意がチームを引っ張っている。

(取材・撮影・文/岡田浩人)


屈指の左腕「自分の投球できた」・・・糸魚川・石川勇二投手


延長10回。1死満塁のピンチ。この夏、糸魚川の石川勇二が投じた309球目となるボールだった。新発田農のバッターが弾き返すと、打球はセカンドへと転がった。狙い通りの内野ゴロ。途中交代したセカンドの選手がグローブからボールを取り出し、バックホームしようとした瞬間だった。

強く降りしきる雨でボールが手のひらから滑り落ちた。

白球がグラウンドに落ちる。慌てて拾ってホームに投げたが間に合わなかった。痛恨のサヨナラ負け。その瞬間、県内屈指のサウスポーの夏は終わった。

糸魚川は延長10回サヨナラ負けで力尽きた(左端が石川勇二投手)

昨夏ベスト4に進出した糸魚川。その原動力は当時2年生だったサウスポーの石川だった。130キロ台後半の直球に鋭く曲がるスライダーとチェンジアップ、そしてピンチでもインコースを突けるマウンド度胸と制球力が抜群だった。今年春の大会には複数のNPBスカウトが「石川詣で」のために足を運んだ。

地元・糸魚川でも周囲の期待は高まっていった。しかし石川は落ち着いていた。
「周りからの目もあり、私生活もしっかり過ごすことができたと思う」
昨夏は準決勝でスタミナ切れのために力尽きたことから、走り込みを増やした。連投でも疲れない体力を養ってきた。初戦は延長14回を1人で投げ抜いた。球数は173。
中1日で迎えた17日の3回戦は粘りの投球を続けた。1点をリードされたものの我慢の投球を続けた結果、終盤8回に仲間の集中打で逆転し、4-3とリードした。

しかし、リードを守り切れなかった。次第に強く振るようになった雨が、石川の体力を奪っていった。8回に追い付かれると、延長10回に力尽きた、

「初戦の疲れはなかった。相手が強かった。みんなが自分を支えてくれた。最後のプレーは雨の中で仕方ない。自分の投球はできました」・・・試合後、石川はさばさばした表情で振り返った。この夏、1人でマウンドを守ってきた男は決して言い訳をしなかった。牛木晃一監督は「初戦で延長14回を投げ、疲れがないというのはウソになると思う。よく投げてくれた」とねぎらった。

「牛木監督のもと練習ができたことが楽しかったですし、悔いはない。大学で野球を続けたいと思っています。できれば指導者になりたいし、チャンスがあるならプロも目指したい」
石川は最後まで涙を見せなかった。それは充実した高校野球生活を送ってきた証だった。

(取材・撮影・文/岡田浩人)


中越沖地震から6年「勝利の喜び両親に」・・・柏崎常盤・山田隼己選手

3対3の同点で迎えた4回裏に、満塁のチャンスで打席が回ってきた。9番の山田が打席に立つと柏崎常盤のベンチが盛り上がる。「隼己、笑え!」…その言葉に打席の山田は、まだあどけなさの残る笑顔を見せた。

悪夢のようなあの日から、ちょうど6年目の日だった。

柏崎常盤・山田隼己選手(右)

15人の犠牲者を出した中越沖地震。山田は小学6年生だった。地震の揺れで自宅は倒壊。「立っていられなくて、声も出ないほど泣いた」と話す。仮設住宅で2年もの間、不自由な時間を過ごした。山田を最初に取材したのはこの頃。「地震に負けずに野球を頑張りたい」とあどけない表情で話す小学生だった。

巨人好きだった父親の影響で、当時の遊撃手の鴻野淳基(こうのじゅんき)さんにあやかって、隼己(じゅんき)と名付けられた。幼い頃から野球が大好きで、体は小さかったが、プロ野球選手を夢見て、地元のチームで一生懸命練習をする子どもだった。

しかし、地震で自宅や野球道具が被害を受けた。野球を続けるのを諦めようと思った時期もあった。だが両親が山田を応援した。中学で3年間、高校で3年間、野球を続けることができたのは両親のおかげだ。最後の夏、背番号4を付けることができた。

初戦となった16日の小千谷戦。柏崎から球場へと向かうバスの中で、山田は思った。
「きょうであの地震から6年・・・よく野球をやってくることができたなと。いろんなものが壊れたりした中で、よくここまでやってくることができたなと思いました」

小山建史監督は山田を「ムードを変えられるバッター」と評する。「1年春のデビュー戦に代打で出したら、たまたまポコンとヒットを打って、そこから流れが変わって逆転勝ちできた。彼が出塁するとチームのムードが変わる」とその役割に期待する。

試合は小千谷に1点を先制されたものの、柏崎常盤が3点を奪い逆転。その後、3対3の同点に追い付かれた後の4回裏、満塁のチャンスで山田に打席が回ってきた。

「いつも打席に立つとベンチでみんなが笑っていてくれて、ここで出たら流れが変わるかもしれないと思っていました」

ファールで粘り、ボールを見極め、押し出し四球を選んだ。山田の出塁にベンチ内はどっと沸いた。山田は一塁ベース上で笑顔を見せた。そこから四球と連打でこの回に6得点を挙げ、試合の流れを決定付けた。5回にはヒットを放ち、セカンドの守備でも2度の守備機会を無難にこなした。12対8で初戦となる2回戦を突破した。

仲間と勝利を喜ぶ山田隼己選手(右から5人目)

「最初に点を入れられた時は、飲み込まれそうになったんですけど、点を入れて逆転して、最後まで粘れて良かったです。勝った瞬間、最後は泣きそうでした。両親にこの勝利の喜びを伝えたいです」

地震から6年。悪夢だった日を、勝利で飾ることができた。小学6年生だった山田は、今では身長が175センチと立派な高校球児に成長した。体だけではない。心も大きく成長していた。3回戦は昨夏優勝の新潟明訓と対戦する。
「できる限りのプレーをして、悔いのないように戦いたい」

(取材・撮影・文/岡田浩人)