指導者として帰って来た“甲子園の4番”・・・開志学園・川上大輔監督

やはりユニフォーム姿がよく似合う。
開志学園の新監督・川上大輔さん(24)は、新潟明訓のOB。2007年夏の甲子園に出場した際は、4番キャッチャーとしてチームの要だった。ことし4月から同校のコーチとしてチームを見てきたが、監督兼任だった松本靖部長に代わって先月から「監督」となり、この夏から初めての指揮を執った。「最初は戸惑いがあったが、自分が緊張していると選手にも伝わるので、緊張しないよう心掛けた」と話す表情は初々しい。

ユニフォーム姿でグラウンドに帰って来た川上大輔監督(右)

2007年夏の甲子園では永井剛(現・HONDA)をリードし甲子園で2勝を挙げた。立正大学を卒業後、新潟に戻ってきた。「もともと指導者になりたかった」という川上さんに、開志学園のコーチ就任の白羽の矢が立った。春からグラウンドに立ち、選手を指導した。

「高校球児である前に学生。私生活をしっかり見つめ直して、野球の技術以前にそういうところをしっかりやらせるように心掛けています。寮の清掃、グラウンド整備・・・まだまだですが徐々にできるようになってきました。それがいいプレーに繋がっていくと思います」・・・それは川上さんが新潟明訓時代に佐藤和也前監督から教わったことだった。

「甲子園は広くて観客の声援も大きい。甲子園でも通用するくらい大きな声を出させるよう指導しています」と自身の経験を選手に伝えている。捕手としてキャッチングを教わった川崎太陽主将は「年齢が近くてアニキのよう。でも厳しいところは厳しく指導してくれました」とその印象を話す。

拍手で選手をベンチに迎える川上大輔監督

7月11日の1回戦では加茂暁星に延長10回サヨナラ勝ち。去年秋の新チーム発足後の初勝利を挙げた。15日の2回戦では、強打の新潟工を相手に、初回に1番で1年生の小池が先頭打者本塁打を放ち先制すると中盤までは互角以上の闘いを見せた。「緊張せずに楽しくやること。名前負けするのではなく、自分たちの力を全て出すこと」・・・選手たちは川上さんの言う通りに伸び伸びと力を発揮した。終盤に突き放され、結果は8回コールド負けだったが、「私が想像していた以上に彼らはよくやってくれた」と川上さんは選手たちを褒めた。

3年生は卒業するが、ベンチ入りメンバー15人のうち2年生が2人、1年生が11人を占める若いチーム。「守備から流れを作りチームを目指したい。甲子園を狙えるチームを作りたい」と意気込む。甲子園の4番を打った若き指導者の監督ロードが始まった。

(取材・撮影・文/岡田浩人)


連合チームだから学べたこと・・・羽茂・相川の長尾貴将主将

初回に6点を先制したものの、中盤に逆転され、結果は8-15で加茂農林に8回コールド負け。連合チームとしての公式戦初勝利はならなかったが、主将の長尾貴将(羽茂)は「連合チームで8回まで野球をやれて誇りに思う」と話した。

ピンチでマウンドに集まる羽茂・相川の選手たち
(右端が長尾貴将主将)

部員不足の羽茂と相川が初めて連合チームを組んだのは去年秋のこと。同じ佐渡市内にある学校と言っても、互いの学校の距離は車で1時間ほどかかる。「最初は羽茂単独で出たいなという葛藤があった」と話す長尾。合同練習は限られた時間しかできなかった。秋の大会は1回戦で7回コールド負け。今春の県大会1回戦でも村上を相手に0-25で5回コールド負けを喫した。

「連合チームで出場していいのか」・・・周囲にはそんな声もあったという。しかし長尾は「見返してやりたかった。連合チームだからと言って決して弱いわけではない」と奮い立った。チーム内のコミュニケーションを大切にした。練習では常に声を掛けあうよう何度も部員に言った。羽茂で生徒会長を務める長尾は、限られた練習時間を大切に過ごした。部員にも時間を大切にすることを呼び掛けた。相川の選手たちとも徐々に打ち解けるうちに、連合チームだから学べることに気がついた。

「羽茂という枠にとらわれず、相川という別の学校に行けるというのは連合チームならではの経験。人間は1人1人に個性がある。別の個性に触れてみたり、普段とは別の人に触れるという経験は大きかった。連合チームだから良かったということはたくさんあります」

試合後に整列する羽茂・相川の選手たち

14日の試合は、5回に集中打を浴び一挙6点を入れられ逆転された。しかし竹内由和監督は「いつもは序盤からミスで崩れていたが、今日はミスから崩された訳ではなかった。外野と内野の連係プレーも及第点をあげたい。見せ場も作ることができた」と選手をねぎらった。長尾は「相手の力が後半上回って勢いを食い止められなかった。でも最後まで全力プレーでできた。今までできなかった連係プレーが本番では十分出せた」と振り返った。

羽茂・相川の長尾貴将主将

この後も部員不足から連合チームを組む学校は予想される。「連合チームだからと言って自信をなくさないでほしい。結果はコールド負けだったが、8回までやれた。去年の夏に羽茂単体で出た時は5回コールド負けだった。一歩一歩前に進んでいる。次につなげることができたと思う」・・・長尾は胸を張って後に続く“後輩”たちにメッセージを残した。

(取材・撮影・文/岡田浩人)


「まだ野球を好きになれていない」…イップスと闘った新津・山田優気主将

「やるしかないんです」
開会式の選手宣誓で誓った言葉の舞台は、9回二死からやってきた。5-8の3点差。ネクストバッターズサークルで待つ背番号16のキャプテン、山田優気は苦しい思いばかりが続いた3年間を振り返るように、じっとバットを見詰めていた。

新津高校に入学して野球に打ち込んでいた1年秋、突然山田はボールが投げられなくなった。失敗など様々な恐怖心から投球ができなくなる心の病「イップス」になってしまった。
「一時期は練習始めのキャッチボールも、ボールを握るのも嫌でした」・・・この日を境に子どもの頃から大好きだった野球が、己を苦しめるものへと変わってしまった。

「怖い部分があって、正直逃げた時もあった」と振り返る。新チームでキャプテンになったが、投げられない自分への不甲斐なさと闘い続けた。去年夏には部員がランニング中に死亡する不幸な出来事もあった。秋には公式戦への出場を辞退した。主将としてチームをまとめるには余りにも困難な状況が次から次へと山田に起きた。

それでも山田は言う。「いろんなことがあっても、自分たちがやるべきことは野球で、とにかく一生懸命日々を送ることしかないのかと。それを一生懸命やることで、これから先の未来が良い方向に行けばいいとだけ信じてやってきた。付いてきてくれた仲間に感謝しています」
選手宣誓では全ての選手を代表して、思いを表現した。
「人は時に夢を諦めそうになったり、言い訳をして、歩むことをやめてしまうことがあると思います。その回数や挫折の大きさは人それぞれかもしれません。しかし、そこで何もしなければ一向に前に進むことはできません。やるしかないんです」
それは、様々な困難に挫けそうになった自分自身への言葉だった。

佐渡総合との試合はベンチから見守った。1-1の同点から6回表に4点を入れ5-1とリードした。しかしその直後、4連打を許し2点差に詰められると、佐渡総合の1番渡辺に逆転3点本塁打を浴びた。さらに2点を追加され5-8とリードされた。

迎えた最終回、二死から代打で打席に立った。
「自分と交代した選手、ベンチに入れなかった選手、その人たちの気持ちに応えるために次の打者に繋ぎたかった」
真ん中高めのストレートを思い切り振り抜いた。打球は遊撃手の後方に飛んだ。「落ちてくれ」・・・そう願ったが無情にも打球はグローブに吸い込まれた。


相手の校歌を聞く新津・山田優気主将(右から2人目)

試合後、涙を拭いた山田は落ち着いた表情で答えた。
「応援してくださった人たちに勝利で応えたかったが、高校野球ではもう表現できない。申し訳ない。負けたということは、自分もチームももっとやるべきことがあったのだと思う。でも仲間には感謝しています。自分はこのまま悔しい思いをしたまま終わりたくない。この思いをいかして、成長していかなければいけないと思います」

思いもよらぬイップス、そして様々な困難と闘い続けた3年間。
そして、今後も野球は続けるのか?との問いに山田はこう応えた。
「自分はまだ野球を完全に好きになれていない部分がある。だから、野球を好きになって終わりたいんです」
高校野球を終えた山田。だがその野球人生はまだこれからも続いていく。野球を好きになるその時まで、「やるしかない」のだから。

(取材・撮影・文/岡田浩人)


【社会人野球】“選抜未勝利”の壁を破った長谷川徹選手

4日に閉幕したJABA選抜新潟大会に懐かしい顔があった。
山形・きらやか銀行の2番打者でショートを守る長谷川徹選手。24歳。
新潟市南区の出身。日本文理高校でキャプテンを務めた。
中央学院大学を卒業後、きらやか銀行に入社して3年目を迎えた。

「高校時代以来ですね、地元の新潟で公式戦に出るのは・・・」
そう言って笑顔を覗かせた。

日本文理高校ではキャプテンとしてチームをまとめ、2006年に春夏連続で甲子園に出場。特に春の選抜甲子園では1回戦の高崎商業戦で勝ち越しタイムリーヒットを放ち、全国で唯一「選抜未勝利県」だった新潟県に初勝利をもたらした。春2勝を挙げベスト8に進出。元阪神タイガースのピッチャー・横山龍之介さんは同期だ。

「高校時代の思い出は、やっぱり春の選抜甲子園に出たこと。そこまで春は新潟県が勝ったことがなかったので勝てて嬉しかったですね」

高校時代はショートから冷静に試合を分析し、どんな時でも落ち着いて見えた長谷川選手。選抜ベスト8後の2006年6月、鳥屋野球場に選抜優勝校・横浜高校を迎えた招待野球で、日本文理は最終回に同点に追い付き、なおも二死満塁で長谷川選手に打席が回った。選抜優勝校相手にサヨナラ勝ちのチャンスを迎え、鳥屋野球場を埋めた満員の観衆は興奮に包まれた。その中で打席に立つ長谷川選手だけが冷静にボールを見極めていたことが強く印象に残っている。

「懐かしいですね。結局あの打席は三振して試合終了(笑)。でも僕たちの代は甲子園でいい結果出せたので良かった。自分たちの時はとにかく甲子園に行きたいというのが強くて、がむしゃらに練習をしてました」

長谷川選手たちの活躍を見て、日本文理高校に進学を決めた当時の中学3年生が2009年夏の準優勝メンバーだ。その後の新潟県勢の躍進の礎となった。

「それまでは北信越大会でも勝てなかったので、自分たちの時に(2005年秋に)北信越大会で準優勝して選抜に行けたのは大きかった。その結果がその後、どんどん強くなっていった代につながっていったのかな」

高校卒業後は中央学院大学へ進学。4年時にはキャプテンを務め、大学野球選手権でベスト8に進出。ベストナインも3回獲得した。

現在は山形市内の支店で融資を担当している。シーズン中は午前中に練習、午後からスーツに着替えて仕事に向かう。「最初は仕事と野球で、生活のリズムに慣れないこともありました。もう3年目で慣れましたが」・・・その話し方に少し山形のイントネーションが混じる。

初めて参加したJABA選抜新潟大会では、3試合に出場し9打数3安打。持ち前のシュアな打撃、バランスの良い守備を見せた。チームは4日の3位決定戦に勝利。久しぶりに新潟の青空のもとで野球を楽しめた。
「山形へ行ってからは、なかなか自分のプレーを見せることができなかったので、親や親せきに自分の試合を見せることができて嬉しかったです」
高校、大学と全国の舞台で活躍した長谷川選手。社会人でも全国の大舞台でプレーすることを目指す。

(取材・撮影・文/岡田浩人)


準Vナインたちの今・・・②駒澤大学 中村大地さん

2009年夏の甲子園で準優勝した日本文理高校。9回2アウト、ランナーなしからの猛反撃・・・ナインの諦めない姿は、新潟県だけでなく全国の、そして野球ファンだけでなく多くの人の心に刻まれた。
あの決勝戦から4年の月日が経とうとしている。新潟県勢初の決勝進出、そして準優勝を成し遂げた選手たちは今、それぞれの進路で活躍している。あれから4年・・・準Vナインたちを取材した。(随時掲載)

東京・世田谷区上祖師谷にある駒澤大学硬式野球部グランド。現DeNAの中畑清監督や広島の野村謙二郎監督、阪神の新井貴浩選手など、数々の名プレーヤーが汗と涙を流した場所・・・日本文理高校でキャプテンを務めた中村大地さんは今、マネージャーの立場でこのグランドで汗を流している。4年生になり学生のトップの立場である「主務」を任されるようになった。

Q主務というのはどういう立場で、どんなお仕事をするのでしょう?
中村さん(以下中村)「学生のトップで、選手を含めて監督の次の立場です。主に日程の管理、オープン戦を相手校に頼んで試合を組んだり、キャンプなどの宿泊の手配、日程スケジュールの管理をやっています。駒澤大はOBの数が多く、たくさんの方と触れ合う場が多いので、自分にとっていい勉強になっています」


駒澤大学で主務を務める中村大地さん

柏崎市出身の中村さんは、2009年夏の甲子園では9番バッターながら5割8分8厘の高打率をマーク。キャプテンとしてチームを引っ張り、準優勝に大きく貢献した。高校卒業後は駒澤大学に進学した。

中村「準優勝してから、いろんな人に声をかけられるようになって、嬉しい気持ちもある一方、責任を持った行動をしないといけないというのが、ずっと自分の心の中にありました。大学に入ってからも1年目はそれなりに注目されていて、選手として試合にも出させてもらっていたのですが、結果が出なくて・・・正直レベルの差を感じました。チームに貢献できていないことで、僕自身はショックを受けて、どこかでやる気がなくなってしまっていた・・・野球部も辞めようかと悩んでいた1年生の秋に、当時の小椋正博監督から、『マネージャーをやってみないか』と言われて。僕もチームに貢献できるなら、マネージャーとして日本一のチームを作れるように頑張ろうという気持ちになりました」

中村さんは小学校、中学校、高校とずっとレギュラーとして活躍してきた。初めてマネージャーの立場になってみて、野球はたくさんの人に支えられてプレーできていたのだと改めて実感した。

中村「プレーヤーだった時は試合だけ、野球だけやってればいいという考えだったんですが、裏側の立場になって、野球をするにはいろんな人に手伝ってもらったり、支えてもらったりしているというのを直に感じることができる。僕自身も選手のサポートだったり、日程を組んだりという仕事があるので、マネージャーになって学んだことはたくさんあります。今までの歴代のマネージャーの方ともOB総会で会うと、『ものすごくやりがいがある。やり切った後にはその先が見えてくる』とずっと言われていて、今は正直、選手のスケジュール管理が大変なんですけど、多忙な日々を送っている中でも、一回り、二回り広い視野を得ることができていると思います」

試合中はベンチに入る。監督の隣に座り、スコアをつけながら戦況を見守る。時に大きな声を出し叱咤し、時に選手を励まし・・・。高校時代、キャプテンとしてチームの「コミュニケーション」を大切にしてきたという中村さん。主務の立場になった今も、最も気を付けているのがこのコミュニケーションだという。

中村「監督と選手のパイプ役のような感じなので、選手の話を聞きつつ、監督からもいろいろな相談をされるので・・・『あの選手は普段どう?』とか、『あの選手の気持ちは今どうなの?』とか聞かれるので、そういう時にすぐに答えられるよう、選手と常に会話をして『今調子どう?』とか、雑談なんですけど会話をするように心がけています。そうすると監督に聞かれた時も、『こいつはこういう状態なので調子は悪くないと思います。でも結果が出ていないんですけど』というふうに瞬時に言えるので、聞かれたことに対してすぐに答えられるように、準備、コミュニケーションを一番大事にしています」

最終学年として迎えるシーズンが始まった。現在、駒澤大学は東都大学野球連盟の1部に所属。「戦国・東都」と呼ばれるこのリーグで、2001年秋以来の優勝を目指す。

中村「主務、マネージャーになった時に宣言したのは、日本一のチームを僕が作ります、と。マネージャーになるからにはそういうチームにしますと監督には言ったので・・・ここ数年、駒澤大は優勝をしていないですし、伝統ある大学なので名門復活を目指したい。主務としてしっかりチームを支えて、選手が試合をやりやすい、野球に取り組みやすい環境を作って、ぜひ優勝・・・この2文字だけを目指して、この春と秋にやっていきたいと思います」
Q今後の将来的な目標は?
中村「高校の時にたくさんの人に応援をされて、いろんな人の支えがあって準優勝という結果を残せました。特に家族には柏崎出身でありながら新潟市に親元を離れて行かせてもらった。そういう支えてくれたたくさんの方々に恩返しをしたいと思っています。仕事先も新潟に帰れるところにしたいと思っていますし、いろんな方に笑顔になってもらえたら・・・そういう恩返しがしたいというのが一番です」

甲子園で選手として最高峰の舞台を経験し、大学では選手を支える立場を経験した中村さん。夢はいつか母校で指導者になることだという。
中村「自分を成長させてくれた人に恩返しできるような指導者になりたい・・・そこが僕の最終目標です」
しっかりとした口調で語る中村さんの表情は、4年間でさらに成長した“野球人”として輝いていた。

追:駒澤大学は東都大学1部・春のリーグ戦で2連勝と好スタートを切った。23日からは優勝への最初の山場・中央大学戦が控えている。

(取材・文・撮影/岡田浩人)