昨夏甲子園でベスト4入りした日本文理高校のエースで、DeNAに入団が決まった飯塚悟史投手(18)。その成長を陰で支えたのが同校OBで元ヤクルト投手の本間忠氏(37)である。高校入学時から「怪物」と言われながらも一時は伸び悩みを見せた飯塚。その転機は去年1月に学生野球資格を回復した本間氏との出会いだった。前年秋の神宮大会決勝で8対0とリードしながらも逆転負けを喫した飯塚。「勝てる投手になりたい」・・・そう話す飯塚に、本間氏が渡したのは1枚のメモだった。今明かされる飯塚の苦悩と、本間氏の助言。甲子園ベスト4進出までの舞台裏と今後について、2人が語った。
DeNAに入団が決まった飯塚悟史投手(左)と元ヤクルト投手の本間忠氏
一昨年、2013年11月20日、東京・神宮球場でおこなわれた明治神宮大会高校の部・決勝。日本文理は飯塚の2打席連続本塁打を含む5本塁打を放ち、沖縄尚学を相手に8対0と大量リードをしていた。新潟県勢初の全国制覇まであとアウトは9つまで迫っていた。しかしエース飯塚が捕まった。7回に3失点、8回には6失点・・・大逆転負けで敗れ、準優勝に終わった。その後、春のセンバツ甲子園へ向けた野球雑誌では神宮大会で3本塁打を放った「打者・飯塚」が注目されていた。2人が出会ったのはその頃だった。
飯塚「自分自身は『打者・飯塚』よりも『投手・飯塚』でやりたかった。正直、『打者・飯塚』としての評価は面白くなかった。その頃、本間さんから教えてもらえることになった」
本間「(学生野球資格を回復して)教え始めたのは去年2月。その頃は『投手・飯塚』よりも『打者・飯塚』の方が大きく取り上げられていた。その評価が僕は嫌だった。投手としての評価を上げたかった。そのためには何をしなければいけないかという話をした。130キロのフォームで135キロを放りなさい、そうすれば打者は詰まる。スピードが上がってくれば133キロのフォームで140キロが放ることができればいい。そこからスタートした。そのためには軸足とテークバック。大きく放って速い球が来る投手はいっぱいいるけど、小さく放って速い球が来る投手はなかなかいない。だからテークバックは大きくなくていい、と言いました。そのフォームで選抜に行こうと話した」
去年2月、学生野球資格を回復して初めて飯塚投手を指導した本間氏(左)
本間「一番最初に飯塚を目にしたのは中学3年生の時。Kボール選抜セレクションでキャッチボールを見たときに『いい投手がいるな』と思った。リリースが強く、ボールをパチンと弾いていた。中学生でもこういうふうに投げる子がいるんだと思った。身長が高く、腕も長かったのでボールは速くなるなと。その後、文理に入学して、ああ、この子かと思った」
飯塚「その時は(見られているとは)全然わからなかった」
本間「プロアマ規定があったので文理に入った後も会話ができなかったけれど、注目をして見ていた。1年生の夏はいいフォームで投げていたが、1年秋に少しフォームが変わってきた。力任せのフォームになってきたと思った」
飯塚「多分そうだと思う」
本間「飯塚のようにボールを弾くことができる投手は軟式から硬式になった時にスピードが上がる。ボールもつぶれないのでバチンと弾くことができるから。それが硬式ボールの重さを知ると段々手が体よりも遠くから出てくるようになる。ボールが重くて遠心力がかかってしまう。そうすると徐々に重さに負けて手首が寝始める。その道を通る選手と通らない選手がいるが、飯塚は腕が長かったのでその道を通ってしまった。シニア上がりのピッチャーが高校でフォームを崩すことはそんなにない。でも軟式の子で中学から高校に上がると結果が出ない子がいる。体ができ上がる前にボールの重さを知ってしまい、そのままフォームが(力任せに)流れてしまった」
12年秋の飯塚投手(1年) 本間氏は「この頃から力任せになっていた」と指摘する
1年生の秋(2012年)、飯塚は県大会で優勝。しかし背番号1を背負いセンバツ出場をかけて臨んだ北信越大会では1回戦で松商学園(長野)を相手に0対15で5回コールド負け。この頃の飯塚は投手として球速を出すことにこだわっていた。
飯塚「1年秋に県大会で優勝して、自分の中ではセンバツ甲子園に行けるんだろうなと思っていた。それが北信越の1回戦でああいう負け方をして、やっと『高校野球』を知った。それまでは中学の延長線でやっていた。その時はまだ球速を出したかった。143キロが1年秋に出たので145、146を目指した。その時はスピードにこだわっていた」
本間「それをやってるうちは直らないだろうなと思っていた。(2年夏に甲子園に行って、2年秋に北信越大会で優勝した)その時はまだ資格を持っていなかったので直接は直せなかった。(飯塚のフォームを見て)うーん・・・(苦い表情)と思っていた。ちょうどその頃に資格回復の話があった。中学生の時に初めて見て『いい投手になるんだろうな』と思って見ていた選手が打者で注目されていた。自分の見る目が間違っているんじゃないかということになる。それは面白くなかった。だから絶対に『投手』として直そうと思っていた」
飯塚「投手として甲子園のマウンドで投げたいと思って文理に入ってきた。それは絶対曲げたくなかった」
去年2月から飯塚の指導を始めた本間氏は最初に飯塚にこう尋ねた。
「どんな投手になりたいの?」
秋の神宮大会決勝で逆転負けを喫していた飯塚は、即答した。
「勝てる投手になりたいです」
本間氏はすぐさま答えた。
「じゃあスピードへのこだわりは捨てなさい」
そして、飯塚に1枚のA4のメモを渡した。そこにはこう書かれていた。
『負けない投手の条件』
・・・それが投手・飯塚を“覚醒”させた『本間メモ』だった。
本間氏が飯塚投手に渡した『本間メモ』 プロで学んだポイントが書き記されていた
フォーム固めと並行して、本間氏は自らが考える「負けない投手の条件」を飯塚に教えた。それは「牽制」「クイック」「クセ」の3つだった。本間氏はいかに走者を出さないか、ではなく、走者を出した後、どうやって進塁させないか、本塁を踏ませないか=いかにムダな失点を減らすか、を重要視した。牽制で走者を塁にくぎ付けにすること、二盗を防ぐためのクイックモーションの重要性、そしてフォームにクセが出ないようにすること・・・スピードボールを投げ込むことばかりを考えていた飯塚にとっては、これら1つ1つの教えが新鮮で、目から鱗が落ちるものだった。
本間「センバツ前はいわゆる『ピッチング』を教えた。配球をうるさく言った」
飯塚「本間さんからは『ランプの付け方』・・・カウントの取り方を言われた」
本間「自分も高校生の時はそう思っていたが、『決め球』は一番最後に投げるもんだと思っていた。飯塚自身も思っていた。でも違うよ、と。打ち取った球が『決め球』になればいいのだから、先に打者に嫌だと思わせた方が勝ち。だから『最初にフォークを放れ』と言った。フォークがあると思えばみんなが早打ちするから球数は減る。ベストはカウント1ボール1ストライクからの3球目を打たせること。そうすれば1イニング10球もいかない。その代わり、ここぞという時には球数は使っていい、と教えた」
飯塚「常に自分と同じ目線でやってもらえたのがやりやすかった。本間さんの教えを実行するたびに自分の中で面白いように成長ができている実感があった。この人について行こうと思った」
本間「自分が高校生の時にはそういうアドバイスをしてくれる人はいなかった。自分自身はNPBでの経験が大きかった。自分は投手だったが1球団に約30人の投手がいる中で、30人全員が同じ動きはしない。それぞれが違う道を行って1軍の12~13人の枠を取る。もし30人が同じ一本道を行くなら、力のない人間が必ず負ける。力のない人間が力のある人間に勝とうと思ったら、違う方法で上り詰めなきゃ駄目。ただ飯塚の場合は馬力があると思ったのでテークバックは小さくても球速は出るよ、そこから肉付けしていこうと言った。上り詰めれば最終的にはプロに行けると思った。最初に『勝ちたい』と言ったので、そこをスタートラインにして、じゃあ勝つためにはどうしたらいいかと考えて直した。150キロのボールはいらない・・・それは本人も納得して消した。150キロをアウトロー(外角低め)に投げるなんてプロでもそう簡単にいない。でも137、138キロをアウトローに放った方が勝てるんだ、と言った」
昨春のセンバツ甲子園初戦で飯塚は豊川(愛知)を相手に好投。特に外角の制球と新球・フォークボールを駆使した頭脳的な投球が目を引いた。試合は延長13回の激闘の末、3対4でサヨナラ負けを喫したが、この試合で『投手・飯塚』としての評価は急上昇した。
飯塚「センバツでストライクを取る感覚がやっと掴めた。自分の中では『投手としてやれる』と思えた甲子園だった。やっと考える投球ができた」
本間「勝ちたかったが、僕の中で飯塚の投球はOKだった。甲子園という試合でしか覚えられない感覚があるから、とりあえずフォークを放ってこい、と言った。甲子園でフォークで空振りが取れることをわかってくれたのは自信になったと思う。センバツまでいろいろなことを吸収をしてくれた。延長戦で母校には勝って欲しかったが、飯塚の成長段階としては合格だった」
本間氏が与えた1つ1つの課題を飯塚投手は乗り越えて成長していった
センバツから帰って、2人が見据えたのは最後の『夏』。そこへのステップが始まった。本間氏が重点を置いて指導をしたのは「インコース(内角)を突ける制球」だった。
飯塚「インコースを突き始めたのは(5月下旬の福岡での)招待野球、西日本短大附との試合(1対0で勝利)だった」
本間「僕が言ったのは1人の打者に3球連続でインコース放れば、ネクストで見ている次の打者に投げる必要はない。2人続けて投げなくてもいい、と言った。打者も1人置きに投げればよくて、全員にインコースを投げる必要はないとも言った」
飯塚「1度に沢山のことを言われるのではなく、少しずつ段階を踏んでやれていたのでやりやすかった。試合をこなすたびに自分がワンランク、レベルアップしている実感があった」
本間「1個ずつ吸収していったのが凄い。ちゃんと自分のものにして、次の段階に入っていった」
夏の新潟大会、日本文理は順調に勝ち進んだ。決勝はノーシードから勝ち上がり勢いに乗る関根学園が相手だった。先発した飯塚は初回と2回に1点ずつを失い、序盤からリードを許す苦しい展開だった。9回裏、小太刀緒飛(こだち・おとわ)の逆転サヨナラ3点本塁打で勝利し、3季連続の甲子園出場を勝ち取った。
飯塚「ずっと立ち上がりが悪くて、だんだん初回に先制されても、正直焦らなくなっていた。9イニングで試合をやることを考えられるようになっていた」
本間「点を取られたら取られたでいいから1点で終わればいいと言っていた。それが2点や3点になるとダメ。1イニング1点だったらいいよとずっと言っていた」
飯塚「それまでは自分が0点で完投することしか考えてなかった。それで失点した時に焦って大量失点したことも多かった。失点してもいいやと思ったことで焦らなくなった」
本間「春から夏にかけて技術的に教えたのはストライクを取る小さいカットボール(小さく曲がるスライダー)だけ。それを我慢して県大会では放らなかった。甲子園で解禁できたのも大きかった」
新潟大会決勝の飯塚投手 初回と2回に失点したが「焦りはなかった」という
夏の甲子園の全5試合を飯塚は1人で投げ抜いた。特に2回戦の東邦(愛知)戦は「ベストピッチ」と2人が口を揃える内容だった。半年間にわたる二人三脚の“集大成”、2人が目指した『投手・飯塚』の完成形が、その試合にあった。
本間「1回戦の大分戦の後が(中6日)長かったので、絶対にバランスがおかしくなっているだろうなと思っていた。(無料通話アプリの)LINEで毎日キャッチボールの内容も聞いて、(調整について)話していた。東邦の1回戦の試合をテレビで見たら、外角ばかりだと踏み込まれて打たれると思った。(5月から練習をしてきた)インコース(内角)を多めに放れと伝えた。とことんインコースを放れと。そうするとだんだん東邦の打者は開き始めてくるから、後半はバットに当たらなくなると」
飯塚「東邦戦は甲子園の中で一番よかった。インコースとカット気味のスライダーを外にも内にも放れた。右打者も左打者も膝元にカットボールでストライクを取ることができた。それが自分の中で大きかった」
本間「東邦戦を見て、高校生としてはここまでなってくれれば十分と思った。力まず投げて142~3キロは出ていた。決めようと思って三振を取っていたし、投手としては十分。あとはプロに行けるかどうかは持っているか、持っていないか。ここまでの姿をプロ側がきちんと見ていてくれれば取ってくれるかなと。うちの監督(日本文理・大井道夫監督)は中京大中京にも負けているし、愛知には勝ちたいんだろうなと思っていたので、東邦に勝って恩返しができた」
飯塚「高校に入って、最初は投手でと思っていたが、(1、2年生の時は)本当に投手でやっていけるのかと不安になってきて・・・でもそこから最後は自信をもってマウンドに上がることができるようになって、甲子園でベスト4という結果で終わることができて、高校生活の集大成を見せることができた。いろんな波はあったけど段階を踏んでやって来ることができて、自分の芯が強くなれたと思う」
本間「改めて、学生野球資格を回復してよかった。制度ができるのがあと半年遅かったら飯塚を直すことができなかった」
飯塚「自分は“持っていた”(笑)。本当に半年違ったら違う結果だった」
「資格回復をしてよかった」と話す本間氏 「持っていた」と笑う飯塚投手
昨年10月23日のドラフト会議でDeNAから7位指名を受け、入団が決まった飯塚。1月9日からは横須賀市で新人合同自主トレが始まり、プロとしての第一歩を踏み出す。プロの先輩でもある本間氏が後輩にアドバイスを送った。
本間「1月の時点ではあまり周りを見ないこと。周りを見るととんでもない力の選手がたくさんいますから。2月のキャンプが終わって、3月から教育リーグが始まるので、そこで自分の立ち位置を見ること。そこから一気に一軍を目指そうとすると故障のきっかけになるので。ただ飯塚は肩や肘に関しては丈夫。2月からやってきて、1度も痛いと言ったことがない。持って生まれたもんだと思う」
飯塚「まずは体づくりだと思う。高校生の体からプロ選手の体にしっかり作って、しっかりイニングを投げられるような投手になりたい。最初はしっかりと基礎体力を作って、いろんな人が投げているピッチングを見て、スピード感なりを自分の中で学んで動いて・・・何年後というのは考えずいつでも自分が一軍に上がれるような状態を作っていきたい。一日も早く一軍に上がれるような・・・急ぐわけではないが、しっかりとその波に乗れるように頑張りたい」
本間「十分だと思う。体を作るのが一番最初の1年目の仕事。毎日野球をやることに飽きないこと。毎日淡々と同じことを繰り返すことが一番しんどい。一日一日、前の日に明日のテーマを決めて、それをピラミッドのように積み重ねること。いきなり開幕一軍というような大きいピラミットはいらないので、小さなピラミッド積み重ねていけば、いずれ一軍に上がることができる。それは去年2月からやってきたことと一緒。あとはオンとオフ。外に出かけない趣味を何か見つけること。野球を忘れられる趣味・・・本を読む、ゲームをする、でもいい。僕の場合は風呂に入るのが好きだったので、寮の時は大浴場に1時間ぐらい入っていた。あとは人間観察を好きになることかな。長年やってる人はオンとオフの切り替えがうまい」
今年の目標を「自覚」と記した飯塚投手 プロの世界でも一歩一歩の成長を期待したい
飯塚「長く球界でやれる選手になりたい。その年だけよかったではなく、次の年もその次の年も継続して、毎年安定した成績を出せるような投手になりたい。(進学・就職する高校時代のライバルやチームメイトも)プロを目指している。プロの舞台で対戦相手として戦えるなら自分が先にプロに行った意地を見せて絶対に負けない。成長した自分を見せられるようになりたい。DeNAはエコスタ(ハードオフ・エコスタジアム)に毎年一軍の試合が来ている球団。いずれ新潟県出身選手として出場できたらと思う。自分は先発完投型でいきたい。本間さんにはこれからも長い付き合いをお願いしたいです(笑)」
<取材後記>
夏の新潟大会を前にした去年6月、本間氏が打ち明けてくれたことがある。「体の“ロック”を1つ外せば飯塚は140キロ後半のボールが投げられるようになる。でもそのロックを外して、もし制球が乱れるようなことがあったらと考えると、外していいのかどうか悩んでいるんです」。結果、勝利を最優先した本間氏はそのロックを外さなかったが、まるでガラス細工を作るかのように、1つ1つのパーツを丁寧に磨くことで『投手・飯塚』を組み立てていった。飯塚も本間氏に全幅の信頼を置いた。飯塚の考えや意見を取り入れた上で、複数の選択肢を示しながら、解決策を探るという本間氏の指導姿勢に、飯塚が信頼を寄せた結果だった。人と人との出会いは大きい。元プロの学生野球資格回復の結果、1人の高校生の才能が大きく花開いたことは、プロとアマの間にいまだに大きな壁がある「野球」という競技の未来を考える上で非常に考えさせられるものである。本間氏が語っていたように資格回復が「あと半年遅かったら」・・・『投手・飯塚』の運命はどうなっていたかわからない。だからこそ、本間氏に限らず貴重な経験値を持つ元プロの言葉が、広く新潟の高校球児に届くようになれば、と改めて考えさせられる取材だった。
(取材・撮影・文/岡田浩人 取材協力/スポーツニッポン新潟支局)