【大学野球・NPB】中日・笠原が新潟医療福祉大を卒業 「人生を変えてくれた4年間」と感謝

新潟医療福祉大の卒業式が14日、新潟市の朱鷺メッセでおこなわれ、中日ドラゴンズに入団した笠原祥太郎投手(新津高出身)ら硬式野球部の1期生が出席。新潟の大学から初めてNPB(日本野球機構)入りを果たした笠原投手は「人生を変えてくれた4年間だった」と野球部での取り組みを振り返り、「一軍に残ることができるよう結果を残したい」と改めてプロでの意気込みを示した。

野球部での活躍をたたえ学長賞を贈られる笠原祥太郎投手(左)

卒業式では笠原投手に在学中の活躍をたたえて学長賞が贈られたほか、成績優秀者として表彰状が手渡された。

笠原投手はオープン戦がおこなわれていた福岡から前日に帰郷し卒業式に出席。1月の入寮以来、久々に会うチームメイトと談笑したほか、同期生や後輩からのサインや記念撮影の求めに笑顔で応じていた。

「4年間はあっという間。人生を変えてくれた4年間だった。ここで野球をしていなければ今の自分はなかった」と大学生活を振り返った笠原投手。想い出の試合は「4年春、上武大に勝った試合」と語り、後輩に対して「自分は高校時代は無名で実力もなかったが、あきらめずに頑張れば大学からでも実力が付くことを知ってもらえれば」とエールを送った。

2月のキャンプからずっと一軍に帯同しているが、11日のオープン戦では9回裏に登板したものの3点のリードを守り切れず、逆転負けを喫した。「一軍の力を味わった。この経験をいかして今後は抑えられるよう頑張りたい」と気持ちを切り替えていた。卒業式後は15日のオープン戦に備えて埼玉に移動するという過密スケジュールだったが、恩師や友人との再会に束の間のリラックスする時間を楽しんだ。

恩師の佐藤和也監督(左)から精神的なアドバイスを受ける

佐藤和也監督は「確固たる一軍の選手になるため、焦らずじっくりと足場を固めてほしい」と激励。笠原投手は「まずは一軍に残ることができるよう、今後の試合で結果を残したい。開幕してからが本番。開幕後も結果が残せるよう頑張りたい」と1年目からの活躍を誓った。


◎4年間主将を務めた橋本彗さん「最初は苦しい思いも、支えられ成長」◎

2013年春にスタートした新潟医療福祉大・硬式野球部で、1期生として群馬・東農大二高から入学し、初代主将として4年間その重責を全うした橋本彗(ひかる)さんも14日の卒業式に出席。「終わってみるとあっという間だった。でも充実していたからこそのあっという間だったと思う」と笑顔で4年間を振り返った。

硬式野球部1期生として4年間、主将の仕事を全うした橋本彗さん

橋本さんは高校卒業後、関東の高校への進学を考えていたが、新潟医療福祉大に硬式野球部が創部すると聞き、「1期生としての魅力を感じた」と入学を決意した。入部後まもなくして佐藤和也監督から主将に指名された。

2013年秋に関甲新3部からスタートしたリーグ戦は、なかなか勝ち星を挙げることができず、想像以上に苦しんだ。「思い出は最初の頃の試合。特に3部で信州大との試合で負けて、倉庫の中でミーティングをして何人かの部員が泣いた。3部の苦しんだ時期、全てが思い出に残っている」と振り返る。

13年秋、関甲新3部からスタートも苦杯続きだった 写真右端が橋本主将

初参戦の13年秋は3部リーグで5位に沈んだ。しかし翌14年春には3部優勝を飾り、入れ替え戦でも勝利し2部昇格を決めた。その後、15年春に2部優勝。15年秋から1部に昇格し、16年春には強豪・上武大と最後まで優勝争いを演じ2位という成績を残した。

「最初の苦しい思いを経験したからこそ、最後に1部の舞台で対等に強いチームと戦うことができた。周りの仲間、支えてくれた皆さんに感謝している」と橋本さん。チームをまとめる上での苦労は「それぞれの個性が強かったこと」と苦笑い。「でもみんないいヤツばかりで、自分は支えてもらった。佐藤監督がいなかったら今の自分自身もないし、今の4年生もないし、今の新潟医療福祉大の野球部もない」と感謝の言葉を続けた。

卒業後は民間企業に就職する。初任地は神奈川県厚木市と決まった。「でも4月1日の上武大との開幕戦は応援に行く予定です」・・・初代主将はこれからも時間の許す限り後輩たちの応援に駆け付け、チームを後押しすることにしている。

硬式野球部1期生の4年生が佐藤監督と記念撮影 それぞれの進路での活躍を誓った

(取材・撮影・文/岡田浩人)


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